No.15
四日市への弥生文化の到来「永井遺跡」
神前地区にある永井遺跡をご存知でしょうか。
伊勢平野を望むこの遺跡は、海蔵川と三滝川に挟まれた尾平町の台地上に位置しています。
昭和47年に発掘調査が実施され、集落を堀のように薄(みぞ)で囲う、
弥生時代前期に築かれた「環濠集落(かんごうしゅうらく)」の跡が見つかりました。
また、環濠からは壺や甕(かめ)などの大量の弥生土器や、
石鏃(せきぞく)・石斧(せきふ)といった石器、漁に使うおもりである土錘(どすい)も
出土しました。
この遺跡の存在は、今から約2,400年前に、朝鮮半島や大陸から九州北部に伝わった稲作と、
それに伴う道具や祭祀(さいし)などの生活様式が、東方へと順次伝播していく中で、
現在の本市を含む伊勢湾西岸の北部に弥生文化として到達したことを示しています。
現在は宅地となった部分が多い遺跡ですが、
発掘調査が実施された範囲のうち、約500㎡が「永井遺跡公園」として保存されています。
皆さんも一度訪れてみてはいかがでしょうか。
出典:広報よっかいち 2023年6月上旬号「文化財さんぽ」
No.14
弁慶だけじゃない!義経を支えた人物とは
みなさんは、昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場した伊勢三郎義盛をご存知でしょうか。
一説によると三重郡出身とされていますが、鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡(あづまかがみ」には義盛の出自について書かれていないため、はっきりとしたことは分かっていません。
義盛は、源義経の家来で、源平合戦などで軍功をあげましたが、後に義経らとともに源頼朝に追われる身となり、文治2(1186)年、京で捕えられ処刑されたといわれています。
その首を家来が持ち帰り、義盛が一時居を構えた川島の地に埋めました。
川島神明神社の前には、その首を埋めた「三郎塚」があります。
義盛の菩提(ぼだい)を弔う墓と伝わる「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」は、慶安4(1651)年、亀山領主・石川昌勝が塚を発掘し、遺骨を移して川島町の西福寺に作ったといわれています。
初夏の陽気を感じながら、川島周辺を散策してみてはいかがでしょうか。
出典:広報よっかいち 2023年5月上旬号「文化財さんぽ」
No.13
川を横断する水路⁉️三十三間筒(さんじゅうさんげんどう)
環境省選定の名水百選に選ばれたこともある桜地区の智積(ちしゃく)養水ですが、
このきれいな水はどこからどうやって流れてくるのでしょうか。
智積養水の水源は、北方へ1.8km離れた菰野町神森の「蟹池」です。
現在は、3~4m四方の小さな池ですが、鈴鹿山脈からの伏流水が湧き出し、とてもきれいな水をたたえています。
昔から水不足に悩まされていた智積村の水田を潤すために、蟹池からの用水路(智積養水)が計画されましたが、
間に流れる金渓(かんだに)川を越えて水を運ぶ必要がありました(金渓川には安定した水量がなかったようです)。
その方法として行われたのが、川底に埋樋(うめとい)(四角い筒状に組んだ水路)を置くというものでした。
当初は木製で、正徳元(1711)年に石製に変えたと「智積村地誌』にあります。
その長さが33間(約60m)なので、三十三間筒と呼ばれました。
智積養水として実現した人々の思いや技術は今も引き継がれていて、
さらに私たちに心の潤いも与えてくれています。
水路の護岸にも歴史が感じられ、散策にお勧めです。
. 出典:広報よっかいち 2023年4月上旬号「文化財さんぽ」
No.12
古(いにしえ)の窯跡(かまあと)の丘、岡山
県地区上海老町の海蔵川と竹谷川に挟まれた台地上に、
「岡山」と呼ばれる独立丘陵があります。
ここでは少なくとも7基の窯跡が見つかっており、古墳時代後期(6世紀)から、
平安時代末(12世紀)にかけて、約600年もの長い間、断続的に窯が造られていたようです。
総称して岡山古窯跡群(こようせきぐん)といいます。
どの時代の窯も、丘の斜面を利用した地下式の登り窯構造となっています。
古墳時代には須恵器(すえき)という陶質の器、
奈良~平安時代には須恵器の器のほかに硯(すずり)や瓦塔(がとう)(寺院の塔を模したもの)、
平安時代末には山茶碗(やまぢゃわん)(無釉(むほう)陶器)と呼ばれる製品が作られ、
それぞれの時代の技術的な特徴がみられます。
昭和30~40年代の開発計画により窯跡の発掘調査がされましたが、
開発の中止に伴い、現在は再び土の下に戻され、その姿を見ることはできません。
出典:広報よっかいち 2023年3月上旬号「文化財さんぽ」
No.11
旅する人の助けとなった道標
皆さんは、道標をじっくりと見たことがありますか。
道標は、十字路や、街道の分岐点に建てられた交通標識です。
現代では、道路交通標識があるため、目に留まることがあまりないかもしれませんが、
自動車が普及する前には、旅人や行商人の目印として重要な役割を担っていました。
そんな道標を多く建立した人物として、服部泰次郎(たいじろう)が挙げられます。
服部泰次郎は安政元(1854)年、小杉村(現在の小杉町)に生まれました。
29歳ごろに米穀商を始め、四日市港から船便で販売網を広げたことにより、
県下でも有名な米穀商となったと伝えられています。
泰次郎は、若い頃行商で各地を移動した際に道に迷った経験から、
大正8(1919)年に時の三重郡役所に願い出て、
郡内の1200カ所ほどにも及ぶ道標を建立しました。
泰次郎が過去の経験を生かし、後の世の人のために建立した道標を見て、
時の様子に思いをはせてみてはいかがでしょう。
出典:広報よっかいち 2023年2月上旬号「文化財さんぽ」
No.10
戦国四日市の首塚?保々の中世旧跡
人権プラザ小牧の向かいに、石柵や生垣で囲まれた区画があります。説明板には「保々の中世旧跡」と書かれています。いったい何があるのでしょう。
中には、円形に盛られた砂利の中央に墓石らしきものが立っています。
これこそ戦国時代の茂福城主で、滝川ー益(たきがわかずまさ)に長嶋城に誘い出され、
討ち取られた茂福(もちぶく)(朝倉)盈豊(みつとよ)を葬った首塚と伝えられるものなのです。
なぜ、茂福の城主の首が、本拠地の茂福ではなく保々に運ばれたのでしょう。
当時の保々には、朝倉氏の築いた保々西城や市場城などがありました。
朝倉氏は室町幕府の将軍に仕える奉公衆の一人であり、北勢の有力領主でした。
その勢力は茂福にも及びそこでは茂福氏を名乗りました。
「保々の中世旧跡」の北には、朝倉氏の菩提寺とされる大樹寺があり、かつてこの地は大樹寺の境内であったことを想像させます。
ひっそりと佇(たたず)む景色の奥に、激動の中世の面影が浮かび上がります。
出典:広報よっかいち 2023年1月上旬号「文化財さんぽ」
No.9
地域の発展に尽くした「三賢人」
下野地区の北山町にある経塚(きょうづか)公園(市指定史跡)には、「三賢人」と呼ばれる先人たちの顕彰碑が建っています。
この三賢人とは、藤井算善(しょうぜん)、下田亨三(しもだこうぞう)、大賀賢励(けんれい)の3人です。
藤井昇善は安乗寺の住職で、江戸時代の文久3(1863) 年から明治8年の12年間、同寺境内に寺子屋を開き、子弟の教育に尽くしました。
この寺子屋は、のちに下野小学校につながっていきました。
下田亨三は、明治22年に誕生した下野村の初代村長で、37年間にわたり村政に力を注ぎました。
県や国の町村会要職にも就き、義務教育費の国庫負担実現に尽力しました。
大賀賢励は大鐘町の浄円寺に生まれ、儒学者で、忍(おし)藩の藩校である興譲学校の初代教頭の任にも就きました。
また、半学舎という私塾を開き、全国から門弟を集め多くの逸材を育てました。
教育や政治に大きく貢献した三賢人は、現在も地区の人々から敬われ、その功績は石碑により伝えられています。
出典:広報よっかいち 2022年12月上旬号「文化財さんぽ」
No.8
弥生時代の悠久の想い伊坂の銅鐸
銅鐸とは、弥生時代に、稲作に関係する祭りで使われたと考えられる青銅製の鐘です。
初期のものは小型で、吊るして、内部にある棒を当て音を鳴らしていましたが、時代とともに装飾が施され、大型化していきました。
全国で430個ほど見つかっていますが、その多くは山の斜面などに埋められた状態で発見されています。
写真の銅鐸は、文久2(1862)年に、菟上耳利(うながみみみ)神社(伊坂町)西方の重地(じゅうち)山で、薪採りに入った農民2人が発見し、掘り出したという記録があり、三重県指定有形文化財です。
弥生時代中期のもので、高さ40.4cm、僧侶が身に付ける衣装に似た袈
裟襷文(けさだすきもん)とよばれる文様が施され、音を鳴らしていた痕跡も見られます。
2000年前の弥生時代の人々が、どのような思いで銅鐸を山に埋めたのか。
銅鐸が出土した菟上耳利神社周辺を訪れ、気の時を感じてみませんか。
出典:広報よっかいち 2022年11月上旬号「文化財さんぽ」
No.7
旧富洲原町上水道大矢知水源地 (濾過機器)
大矢知地区に現存する2基の濾過(ろか)機器を知っていますか。
「四日市市水道五十年史」には、上水道設置の経緯について次のように書かれています。
大正6年に東洋紡績富田工場が完成し、人口が急増したため、下水道工事に着手し始めました。
同時に上水道(濾過機器)の設置を望む声が住民から高まったため、
大正13年に「皇太子殿下成婚記念事業」として設置が決まりました。
その際、当時富洲原町で議員を務めていた平田佐次郎(さじろう)・伊藤平治郎らの3万円(現在の1,800万円相当)の資金援助が後押しとなりました。
下水道は昭和2年に竣工、そして上水道は昭和4年に竣工しました。
この上水道の濾過機器は、一昼夜に1,878.5m3もの水を過し、
水中の鉄分・無水炭酸の処理やアンモニアを除くことができる、
当時としては新鋭機であったとされています。
この2基の濾過機器は、90年以上もの歳月が経っていますが、
創設当時の姿をよく残しており、
水道事業における歴史的価値のあるものとなっています。
出典:広報よっかいち 2022年10月上旬号「文化財さんぽ」
No.6
富田一色町の広小路とまちなみ
富田一色町には、寛永16(1639)年の大火後に防火のため、山の神町(かみまち)を取り壊して設けられた広小路があり、
この広小路通りで開催される「けんか祭り」は、飛鳥神社に練り込もうとする鉦(かね)の組と阻止する太鼓の組との間で勇壮に繰り広げられます。
江戸時代末、富田一色湊(とみたいっしきみなと)を擁する当地には廻船業者が多く、海運橋から東西に延びる八風街道の整備で陸海の交通が発達しました。明治時代に東洋紡績富田工場ができると、港が手狭になり塩役運河(しおやくうんが)が改修されました。八風街道の両側には戦前に漁網生産販売日本一を誇った平田紡績ゆかりの建物や蔵が往時をしのばせています。
「5月上旬号掲載の「四日市萬古の祖山中忠左衛門」について、発行後に「四日市萬古の祖は唯福寺(ゆいふくじ)第十三世住職田端教正師であり、周辺の生活困窮者に職を与えて救済することであった」というご指摘を頂きました。貴重なご意見をありがとうございました。今後の萬古焼研究に生かしてまいります。」
出典:広報よっかいち 2022年9月上旬号「文化財さんぽ」
No.5
桑名宿(くわなしゅく)と四日市宿(よっかいちしゅく)の「立場(たてば)」 富田
江戸時代に入って、幕府が東海道を整備すると、四日市は43番目の宿場町として栄え、経済活動が活発になるとともに、交通の要所として発展しました。
富田は、桑名宿と四日市宿の間で旅人たちが休憩する「立場」があり、街道の両側には茶屋が軒を連ね、松ぼっくりを燃料にして焼いた富田の名物焼き蛤はまぐりを食べさせてくれるお店がありました。
当時の浮世絵を見ると、行き交う人々や休息する人で賑わう様子が数多く描かれています。
また、幕府は、街道の1里(約4km)ごとの両側に目印となる榎えのきなどの樹木を植えた大きな塚を設けました。
下の写真(下記のリンクからアクセスください)は三重県指定文化財(史跡)「富田の一里塚跡」です。近鉄名古屋線の高架と東海道が交差する近くにあります。
現在では、当時の面影は姿を消し、道路の片側だけに一里塚があったことを示す石碑が建てられ、そのかたわらにかかる橋に「一里塚橋」の名前が残されるばかりです。
出典:広報よっかいち 2022年8月上旬号「文化財さんぽ」
No.4
「壬申の乱」伝承の地 額突(ぬかづき)山
皆さん、「串の乱」はご存じですか。
672年に大海人(おおあまの)皇子(後の天武天皇)と
その兄天智天皇の息子・大友皇子が覇権を争った古代史最大の内乱です。
乱の行程において大海人皇子は、吉野(奈良県)から逃れ、
美濃(岐阜県)へ行く途中の6月26日の朝、
朝明郡の迹太川(とおがわ)の辺りで
太陽神天照大神(あまてらすおおかみ)を遥拝(ようはい)したと「日本書紀」にあります。
市内には、この伝承地が各所にあり、
大矢知地区に県史跡「天武天皇迹太川御遥拝所跡」があるほか、
羽津地区には「天武天皇神宮御遥拝所」石碑があります。
この石碑は、糠塚(ぬかづか)山(異名:額突山)の山頂にあり、大正4年(1915)に建てられました。
額突山とは、大海人皇子がぬかずいて拝んだ、という伝承から名付けられたとされます。
また、山中には糠塚山古墳群があります。
現在は、市民緑地として遊歩道が整備され、山頂からは東に伊勢湾を望むことができます。
一度訪れて、古代史のロマンを感じてみませんか。
出典:広報よっかいち 2022年7月上旬号「文化財さんぽ」
No.3
新種のナシ 国指定天然記念物百周年
ナシの仲間には、果物の梨の原種であるヤマナシのほか、
食用ではないマメナシ・ミチノクナシなどがあることをご存知ですか。
そのうちマメナシは、東海三県のみに自生している植物で、
三重県ではイヌナシと呼ばれています。
実はイヌナシは、本市で初めて発見され、日本植物学の父・牧野富太郎が
明治41(1908)年に新種として発表し、
大正11(1922)年には、国の天然記念物に指定されました。
同様に、マメナシと栽培ナシの雑種であるアイナシも本市で発見され国の天然記念物となりました。
この2種の木には、春、桜が咲くころ、真っ白な5弁の花が咲き、
秋になると、イヌナシには1cm度、アイナシには2~3cm程度の実がなります。
どちらの実も、皮は斑点のある黄褐色をしており、小さいながらもナシの仲間だと実感できます。
国指定天然記念物「東阿倉川イヌナシ自生地」と「西阿倉川アイナシ自生地」は海蔵地区にあります。
この珍しい木をぜひご覧ください。
出典:広報よっかいち 2022年6月上旬号「文化財さんぽ」
No.2
近代萬古焼の祖 山中忠左衛門
萬古焼といえば、紫泥急須や土鍋、近年人気の高いご飯鍋など食生活に彩りを与えるものが思い浮かびます。
萬古焼そのものは江戸時代後期の茶陶から始まりますが、現在の萬古焼の礎を作ったのが山中忠左衛門でした。
忠左衛門は、幕末、未永村(現在の川原町付近)の住民の困窮や失業者の増加を憂え、彼らの救済のため製陶の研究や修練を重ねました。
そして明治3年(1870)ごろに、水車村(現在の浜一色町)に窯を築いて住民に仕事を与え、彼らの暮らしを助けました。
その後、四日市には次々と製陶業を営む者や名工が現れました。
忠左衛門の窯で焼かれた製品の多くは「山中製」や「左楽」と捺されています。
海外への輸出を視野に入れた作品が多く、ユニークな形や模様で見る者を楽しませます。
忠左衛門は今は陶栄町の萬古神社に祀られ、萬古焼の発展を見守っています。
練込蓮形鶴絵(ねりこみはすがたつるえ)コーヒーカップ(山忠窯製)
出典:広報よっかいち 2022年5月上旬号「文化財さんぽ」
No.1
江戸時代の食卓~多彩な陶磁器~
今月から、あまり知られていないさまざまな市内のお宝(文化財)を紹介していきます。今回のテーマは、江戸時代の食卓を彩った陶磁器です。
江戸時代の四日市は、東海道五十三次の43番目の宿場町で、代官の住居・役所である陣屋が置かれていました。
四日市陣屋は、現在の中部西小学校(北町)辺りにあり、江戸時代の絵図によると、広い堀に囲まれていました。
同校の校舎建て替えに伴い、平成11年にこの堀の一部の発掘調査を実施。
堀は木の板で土留めがされており、中からは陶磁器を中心にいろいろな生活用品が出土しました。陶磁器の産地は、愛知県・岐阜県を中心に、滋賀県や佐賀県が多数を占め、岡山県のものもありました。また、萬古焼や、市内桜町で一時期焼かれていた桜焼なども出土しています。
これらの出土品から、江戸時代の四日市の人々が、多彩な陶磁器で食事を楽しんでいた様子が思い浮かびます。
出典:広報よっかいち 2022年4月上旬号「文化財さんぽ」
「広報よっかいち」は充実した内容で毎月2回(上旬号、下旬号)発行されています。その上旬号で「文化財さんぽ」という連載が掲載されていて、すでに47回(2026年3月31日現在)を数えます。
四日市市の制作推進部広報マーケティング課に依頼して、記事の掲載の許可を得られました。
全く同文なので、リンクを貼り付けて原文にアクセスしていただければ掲載写真もご覧になれます。
(写真は権利の帰属関係で当HPでの掲載は致しません)
掲載は、毎週月曜日を予定しています。
まずは4月6日からスタートします。